3月の読書。「フラニーとズーイ」の続き…。文体。
前回のブログは、この本「フラニーとズーイ」の文体まで言及したところで終わりました。
で、その続きです。
訳者の村上春樹は、サリンジャーの意向でこの本に後書きや解説を掲載してない。
しかし小説が書かれた時代背景や作者サリンジャーの状況などは、
この小説を読み解く為に知っていても良いだろうという訳者ならではの意図で、
文庫本に挟み込みという体裁で小冊子がついていた。
元々この小説は「キャッチャー…」の後に雑誌『ニューヨーカー』に連載された、
「フラニー」という小説と「ズーイ」という小説として世に出た。
従って我々日本人にとっては時代背景が理解出来ないハンデがある。
もっとも「カサブランカ」や「ティファニーで朝食を」だって、そんなことを知らなくても充分に楽しめる。
でもまぁ、そこは訳者なりの親切心だし、村上ファンなら嬉しいものです。
おっと、話が逸れました。此処で大切なのは時代背景ではありません。
文体です。
村上春樹はこの小説を翻訳する時に注意した点に文体を挙げていました。
そもそも文体とはなかなか掴みにくい代物です。
この “1960+”のブログは3人が交代で書いていますが、恐らく取り上げる題材と同じくらい文体も違うと思います。
でもそれを具体例を出して分析するのは難しいし、それ以前にそもそも無駄な行為です。
文章の二大構成要素。
それはストーリーと文体だと思います。
文体とは、言ってみれば洋服みたいなものです。
あるいはプレゼントに対するラッピング。
レコードに対するジャケット。
いやこれは違う。曲に対するアレンジ、演奏ですね。
同じ曲でも、ギターだけの弾き語りかフルオーケストラかで印象が変わります。
スロー・バラードかアップ・テンポかで聴こえ方が変わります。
同じメロディと同じ歌詞でもアレンジは大事なんです。
文章でこのアレンジに相当するのが、恐らく文体だと思います。
で、村上春樹は英語で書かれたサリンジャーの小説の文体を、日本語で出来るだけ忠実に再現しようとしました。
“僕”か“俺”か“私”か…。ですます調か、あるだ調か…。
文章のリズム感や句点を打つ位置や様々な要素が文体を構成します。
で、それがどうやら玉下には合わなかった。
ストーリーそのものへの興味や理解度の問題もあるけど、それ以上に前へ進めなかったのは、
文体に起因していたんじゃないかなぁ…。
それほど厚くないにもかかわらず、3月一ヶ月をほぼ費やした気がします。
で、最終的に残ったのは読み終えた達成感と、これで新しい本に向かえるという解放感でした。
あっ、それと“文体は重要だ”という発見。
読後の感想は…、あと5年後くらいに再読してからかなぁ。
有難い事に、そんな読了のタイミングにAmazonで20円で見つけたのが、
「満月、空に満月」でした。
【本日の一曲】 「氷の世界」by 井上陽水。
1973年12月に発売された三枚目のアルバムの表題曲。
玉下は中学生で、友達に家に遊びに行って初めて聴いた記憶があります。
何故この曲が今日の一曲か…。
続きは次回のブログで。
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この記事へのコメント
takako.t.maruさん
なるほどねぇ。
文体はカラダ…。ココロとカラダの関係…。
中身と服だと思ったけど、
ココロとカラダの方がシックリきますねぇ…。
玉下奴郎拝
なるほどねぇ。
文体はカラダ…。ココロとカラダの関係…。
中身と服だと思ったけど、
ココロとカラダの方がシックリきますねぇ…。
玉下奴郎拝
玉下さんに刺激されて、
4月14日、16日、18日と3日も記事を書いてしまいました。
どうもありがとうございます。
4月14日、16日、18日と3日も記事を書いてしまいました。
どうもありがとうございます。
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URL :
- takako.t.maru - 2014年04月16日 05:50:35
体臭が嫌いな奴は受け付けないのと同じで、読めない。
村上春樹が訳した時点で、「村上春樹が考えた、サリンジャーワールド」
になっちゃってるから、私には余計に(サリンジャー+村上春樹+サリンジャー好きだった自分+村上春樹好きだった自分)気持ち悪い。
だったら読むなって話しだけど、恐いもの見たさと、やっぱり好きかも・・という甘えたい気持ちと、「ああ、心とは・・裏腹ねぇ・・」と歌いたくなる気持ち。